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聖スタニスラオ司教殉教者                                   記念日 4月 11日



 「正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼等のものだからである。」(マタイ 5−10)世に信仰道徳を乱す者があれば、責任者は一身を顧みず、にがいいましめの言葉も言わねばならない。聖スタニスラオ司教殉教者も、義のために命を捧げたひとりである。

 彼の両親は家名、財産とも何不足ない身であったが、ただ一つさびしいのは結婚後三十年も子宝に恵まれないことだった。祈りに祈りを重ねて、ようやく1030年7月玉のような男の子を授けられた。これが後の聖スタニスラオ司教である。喜ぶ両親は我が子を将来聖職者として神に捧げることにきめ、心身両面からいたわり育てた。スタニスラオも親の期待にそい、よく祈りよく学び、国の一流校グネーゼン大学を卒業後、パリ大学に留学した。そこでもいっしんに学問に励み、徳行をみがき、パリにあること7年にして聖会法博士の学位をかちえた。

 こうして故郷ににしきを飾ったスタニスラオは、まもなく父母に死に別れると、修道院に入るつもりで全財産を貧者に施した。クラカウの司教ランベルトはスタニスラオの人物を見込んで司教座顧問とし、ついで司祭に叙階し、さらに副司教にまであげた。ランベルト司教がなくなると、スタニスラオは真っ先にその後継者に挙げられたのでやむをえず1072年42歳でクラカウの司教に就任した。司教は言葉で教えるまえに、身をもって教区民に手本を示した。まず熱心に祈り、しばしば大斉し、貧者を助け、清い生活を営んだ。そのため彼の一言は千金の重みがあった。

 時の国王ボレスラフ二世はわがままで、邪欲のとりこになり、臣下の妻や娘に対し、しばしば道ならぬふるまいをしていた。臣下は後難を恐れて泣き寝入りし、ただそのうえは司教に頼んでいさめてもらう以外に方法がなかった。
 そこでスタニスラオが王をいさめると、はじめはおとなしく回心を誓ったが、時がたつにつれて以前よりもだらしなくなった。スタニスラオも大胆にこのような不倫を続けるなら破門も覚悟しなければならないと誡めた。王はこれを根に持ち、彼の名誉を傷つけようとはかった。

 そのころスタニスラオは、ペトロという一農夫の土地を教会用地に購入し、その代金を支払った。王はペトロが領収書を渡さぬうちに急死したと聞いて、ひそかにその遺族に命じ「スタニスラオ司教は、わたしどもの土地を奪いました」と法廷に訴えさせた。
 スタニスラオは土地売買の件に詳しい証人もいることだし、自信をもって出廷したところ、証人も王に買収され司教に不利な証言をした。苦境に立った司教は判事に「では最も確かな証人を連れてまいりますから、三日の間お待ちください」と申し出た。判事はほかに証人など出ることはあるまいとタカをくくり、三日間待つことにした。

 伝えによるとスタニスラオは三日間断食し熱心に祈り、三日目の朝、ミサのあと司教の盛装をしてペトロの墓に行き、その墓を開かせて「復活せよ!」と言った。するとペトロは息を吹き返し司教に同行して法廷の証人台に立ち、土地売買の件を明らかにして、再び墓に帰り死人になったという。
 この奇跡に驚いた王は一時改心したが、のち習慣的に同じ不品行を繰り返し、スタニスラオの再三の忠告をもうるさがり、はてはこれを殺害しようとたくらんだ。

 1079年5月8日のことスタニスラオ司教が町はずれの聖堂でミサをささげているところを、ボスラレフ王は部下を率いて乱入し、自ら司教を斬り殺した。この後王は国民の反乱にあって国外に追放され、亡き司教は聖人として崇敬された。